「話せない」からこそ「放したい」。だからカウンセリング。


1.本当に話したいのは、なかなか言えないこと

カウンセリングを受ける理由は様々です。
ですが多くの人がなかなか周りには言えないことをカウンセリングの場で話します。

それはある意味自分の周りの人に話してしまうと、変に思われたり否定されたり傷つけられるのが怖いからではないでしょうか。

あるいは秘密など。話せないことほど人は話したくなるものです。

自分の中で抱えているのが苦しくなり誰かに受け取ってほしくなる。

自分の中で抱え続けているとなんだかそれが気体から固体へと変わっていくように、自分の体の中で黒い重みのあるカタマリを心に生み出してしまい、その違和感とか、重荷が痛みに変わったり、あるいはその固体が、まるで海のウニのように棘(とげ)を帯び、自分の心や胸を刺し、それに傷ついたり苦しんだりしてしまいます。

皆さんも一度や二度ではなく、今までの中でそういった経験をされてきたのではないでしょうか。

2.王様の耳はロバの耳。

誰かに話したいのに話せない。そんな気持ちを想う時、子供の頃に聞いたあの話を思い出します。

王様の耳はロバの耳。皆さんも覚えていらっしゃるのではないでしょうか。

ロバの耳が生えている王様はそれを民衆に内緒にするために帽子をずっとかぶっているのですが、どうしても髪の毛が長くなると帽子にはしまい込めなくなり、床屋を呼ぶのですが、呼ぶ床屋、呼ぶ床屋が皆その秘密を黙っていられなくなり話してしまい、殺されてしまう。その国の最後の床屋となった主人公は王様に呼ばれ、秘密を知り、どうしても我慢できなくなり、森の中の葦に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んでスッキリするも、その葦で笛を作って笛を吹くと、その笛から「王様の耳はロバの耳」と聴こえてきて、その話が国中に広まってしまうというお話ですね。

内緒で秘密でヤバい話ほど、人は話してしまいたくなるもの。

先日たまたまですが「話す」という言葉の変換の際に「離す」となったのですが、言い得て妙だなと思いました。

「話す」とは「離す」あるいは「放す」に通じるものがある。

つまり抱え込んでいる不安や悩み、秘密や苦しみは、誰かに話すことでそこから離れたり、放したりすることができる効果がありますよね。

でもそれなのに、いやだからこそ自分の周りには話せない。

だから、カウンセラーというある種「葦のような」第三者のカウンセラーが必要なんだなって思います。

3.「葦のような」存在。

そしてこの「葦のような」という点についてですが、この「王様の耳はロバの耳」という寓話は葺ではなく、井戸であったり、洞穴の奥、森の中であったりといういろんなパターンが実は存在します。

ですが、僕はこの「葦に」というところに惹かれます。なぜか。

早熟の天才ブレーズ・パスカルは「人間は考える葦である」という言葉を残しています。

なぜ、彼はあえて「葦」と表現したのか。

色々とネット検索したところ、教えて!gooの投稿の「人間は考える葦であるとは?」のstarfloraさんの答えが秀逸だったので、抜粋し要約して紹介したいと思います。

【これにはこんな理由があります。「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと弱いためにすぐしなって曲がってしまいます。風に抵抗できず、いや抵抗せずに、しなって敗北してしまう。しかし、偉大な樫の樹などは風が吹くとしなることはせず、抵抗するので風に勝利することができます。

しかし、繰り返し風が襲って来た時には強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。

賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えますが、風がやむと徐々に身を起こして再び元のなにごともない姿に戻って微風に揺れている。

人間とは自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。

この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。

暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。】

「王様の耳はロバの耳」に床屋が我慢しきれず思わず口にした相手の葦とは、いわばカウンセラーのような存在。傾聴する者であると捉えてみるとどうでしょう。

一見弱々しいようでありながら柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。

そんな在り方をもちながら、じっと相手の話を受け容れる。

笛になったら「王様の耳はロバの耳」と音を出してしまうのは問題かなとは思いますが、傾聴者、カウンセラーのあるべき姿、在りたい姿の理想像として私はこの葦のように在りたいと感じました。

皆さんはいかがでしょうか。

3件のコメント

  1. 「葦」のこと パスカルのこと、そうだったんだぁと思いました 私は、この記事から、自然、生命の気高さを感じます🌱
    実は、私が、「たんぽぽ」を好きになったのも、葦やパスカルに似た気高さを「たんぽぽ」がもっているからです

    「たんぽぽ」は、春に花を咲かせた後に、まるで枯れてしまったかのように地面にぐったりと倒れてしまいます でも、それは枯れてしまったのではありません 実は、倒れている間に、たんぽぽは、たくさんの栄養を種に送り、種をわた毛に乗せて飛ばす準備をしているのです
    種ができると再びたんぽぽは、起き上がります これは、自然の中で、子孫を残し、強くたくましく生きていくためのたんぽぽの作戦なのです

    これは、小学校二年生の国語の教科書に載っている説明文に書かれているものです

    私は、この「たんぽぽ」の姿に、人の生き方を重ねます 辛い状況の中で苦しみ、倒れてしまったかのように見える人たち でも、その時、人は、自分自身に栄養を送り、再び立ち上がる準備をしているんだと思うのです そして、立ち上がった後には、何かとても大切なものを手に入れ、さらにそれをたくさんの人に贈ることができるようになっているという生き方です

    あの可愛らしい「たんぽぽ」の花に、こんなたくましさと知恵があることに、心動かされるのです

    葦、パスカル、たんぽぽ

    それぞれ全く違うものですが、「生きる」ということにとても真摯に向き合っているのだと感じます

    そして、もしも、倒れてしまいそうになったら、そんな「たんぽぽ」の生き方を思い出して、勇気をもらいたいと思うのです

    この記事から、そんな思いを巡らせました

    ありがとうございます🌼

  2. 面白い記事でしたー。「話す」は「離す(放す)」はすごく表現としてしっくりきました。パスカルって名前くらいしか知らないですけど、興味が湧きますね!

  3. 葦は足にも変換出来ると発見(^o^)
    相手が見付けられずにいる迷宮の出口を一緒に探す足になること、お互いに知らぬ世界観へと誘う足であること。そんな感じも面白いかも、と考えていました。

    葦とはすごい植物なのですね。勉強になりました。ありがとうございます。しなやかでありながら、力強い人で在りたいと私も思います(*ov.v)o

    だけども、ふと、、、
    床屋のように「か弱く無害(自分にとって無抵抗)なモノ」と、葦を見くびって焦るような人にはなりたくないなぁ、と思いました。脱線してごめんなさい。ありがとうございました(^-^)

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